五十路に読んだ本
大叔父(もしかしたら叔父だったかもしれない)から、地元「盛岡市の作家」ということで頂いた本がある。
厚さ2cmほどの背表紙だけれど、頂いた当時の私は本の世界に没入するには余裕のない日々を送っていた。しかし本のことを忘れぬよう、いつも目にする棚に収めていた。時折「まだか?」とその背表紙は語りかけてきたが、頂いてから20年も経ち、ようやくその時が訪れた。
さて私は居間にいるが、お菓子とコーヒーをそばに置き、静かに篭城を始める。読み切るまで時間を気にするつもりはない。
それはツーリングの準備が整ったことに似ている。
『オートバイの旅は、いつも 少し寂しい。』(2004年初版発行)
著者/斎藤 純
盛岡市在住の著者がBMW R1150Rで旅をするツーリング・エッセイ集
初版であるこの本を頂いてから20年。
私は当時の著者と同世代になっていた。
著者はその旅で岩手山麓の「焼き走り」や鳥海山、八幡平アスピーテライン、磐梯吾妻スカイラインなど東北各地の名山やビーナスラインを訪れている。偶然にもここ数年間で私が訪れた場所で、同じくらいの年齢の時に同じ道を走ったという親近感で話に引き込まれる。
「もしかしたら著者の年齢に追いつくための20年間だったんじゃない?」と思うほど、絶好のタイミングでこの読書に(旅に)導かれたような気がする。
山を巡る旅
本作は2つのパートとそれぞれの章で構成されている。
パート1で著者は、江戸時代の絵師(谷文晁)が描いた『日本名山図会』という本を携え、山を巡る旅をしている。そして絵師が見た山を眺め、遠い昔に想像を膨らませている。
江戸時代と著者が旅した20年前、そしてさらに私がいる「今」へと時は繋がっている。
当時の著者は植林された山や風力発電の白い風車を見ている。
私はこの先、ソーラーパネルを敷き詰めた山々を見るだろう。
私自身、日々なんとなく「色々とマズイんじゃないか?」と思いながらも、そういった経済活動から何かしらを享受している。
ふるさとの山に向いて
いふことなし
ふるさとの山はありがたきかな
本でも引用されている岩手の歌人、石川啄木の歌。
将来、誰かが故郷の山々を見てこんな気持ちになるのかな?思いもよらず現代の暮らしに罪悪感を覚えた。
ブナの森を巡る旅
パート2では各地のブナの森を訪れる旅にテーマが変わる。同時に日本の林業の歴史と課題を紐解いていく。
著者曰く「木を伐ること=自然破壊」は間違いとしている(だからと言って無闇に伐っていいわけではないとも)。木は再生可能だから、伐った後に木を植えて育てればいいと。
人の一生も森林のサイクルに似ている。
ここ数年「丁寧な暮らし」とはよく聞く言葉だが、子供達が巣立ち、今ある物を手入れしたり工夫する時間を持てる生活になった。(手はかかるけど少し楽しみでもある)
私が忙しさにかまけて楽をさせてもらっていたあいだ、大量消費や使い捨てのサイクルから外れた「丁寧な暮らし」をしていた人達もいたわけで、これからは自分なりにそういった事を心がけたい。
オートバイの旅は、いつも 少し寂しい。
著者は晩秋の東北を走る。そして気の毒なほど雨の多い旅だ。
遠く目指す山は色彩と熱を失い、風景はまさに墨絵のように見えただろう。ドイツのバイクはそんな冷たい風景にさえ似合うと思った。
『モノクロームの記憶』とは単に目にしたことを語っているのではないのだろうと勘ぐるが、旅で著者はジャズ喫茶や美術館へよく訪れており、それらの描写には色と熱が帯びる。
挿絵的な写真はツーリングマップルで北海道を担当している小原信好さんという方が撮影している。(旅の同行者であるカメラマンの素性が明らかになった時、手持ちのマップルにそのお名前を見つけて「ここでこの2冊が繋がるか〜」と、はしゃいでしまった)
目の前の焚き火を見るともなしに見つめているような写真。少しブレていることもタイトルの『オートバイの旅は、いつも 少し寂しい。』と言う心象を写しているように思えた。
長年本棚の背表紙を見てきた。
私はオートバイの旅が寂しいと感じたことが1度もなかったので、正直「なんでこんなタイトルなんだろう」と見るたびに思っていた。
しかしここ最近、走りながら「あと何年オートバイで遊べるのだろう?」と頭に浮かぶ時がある。
著者がなぜこのタイトルにしたのか。その思いに少しは近づけたのだろうか?それとも(私のことなので)まったく的外れなのかな?
とにかく。
鳥海山のブナを見たい!箱根を走ってみたい!京都の鴨鍋も食べたい!そう思った。
まだまだ老け込んではいられない。
オートバイを停める。
堆積した落ち葉と苔生す大地。踏み入るブーツの足裏に水分を蓄えた地面の感触を得る。
そうして私は目の前にあるブナの大木を見上げ、柔らかな緑の陽光を胸いっぱい吸い込む。
そこはどんな匂いがするのだろう。